高野山開創1200年。
前回は歩き遍路のお礼参り。
今回は先だっての車遍路のお礼参り。
4年ぶりの高野山はちょうど開創1200年。
壇上伽藍中門(画像後ろの門です)のヒノキで作られた木彫りで、
奥の観音さまと竹のお地蔵さんは4年前参拝した際に、ご縁あって頂いたものです。
手前の木彫りは先月、四国遍路の大先達より頂いたものですが、
「どうせ遍路やるなら、もっとちゃんとまじめにやってみい。」
と、その言葉がずっと胸に突き刺さっております。
もっとまじめに何をやるのか。
もっとまじめに祈れというわけですが、
祈りに力を宿すには、作法というものが必要でありまして。
遍路の作法というものはこれまた奥深いものがあるので、
おいそれと簡単に入れる世界ではないのです。
祈るということは、背負うということですので。
この世や、あの世の、人の魂を。
一杯の珈琲に、一粒の珈琲豆に、
美味しさ以上の何か、パワーを宿すには、
これもまた作法が必要なのだろうなあと思うのです。
作法とは何か?
それは、騒ぐ心を治める術。
チベットのことわざにもあるように、
「身体の事をやる時は心の事を。」
「心の事をやる時は身体の事を。」
自分の珈琲と真摯に向かい合い続けるためにも、
遍路や仏教の作法を学ぶことは必要かもしれないと、
自然と思うようになって来ました。不思議なものです。
超カッケー広目天像に後頭部をガン見されつつ、
神秘の山を後にしました。
高野山は人生で3度めの来訪でしたが、
初めて弘法大師・空海の存在を実感致しました。
奥の院に、ものすごいデッカイ空海さんが出入りしておりました。
・・・帰宅後、
「ああ、そうか。高野山に集まるすべての人が、弘法大師の身代わりなんだ。」
と、気付いたのでした。
さて、どこぞ行くのか、しまこや珈琲。
仏の世界と豆の世界をリンクさせる、
前代未聞のコーヒー屋かな?(-_-)/
(おしまい)