開店当初、
とあるお客さんに言われた。
「茶道のお点前のように、美しい所作ですね。」
「マスターの淹れたコーヒーを飲みたい、って全国から沢山人が集まるような、
そんな名店を目指して下さいね。」
私が目指していたのは、誰が淹れても美味しいコーヒー豆なので、
ちょっと違うかなと思いつつ、曖昧な返事をした記憶がある。
お店はその後、知る人ぞ知る、頑固な豆屋に成長し(笑)、
まだまだ2年目ながら、常連の上品なお客さんにとっては、
とても居心地の良い、精神的な『空間』に育ちつつある、
そんな実感がある。
『空間』は清浄に保つ気遣いのできる人だけが利用すれば良い。
私はそう信じている。
さて先日、
とある展示会に足を運んだ。
玄関を越えると、そこは静けさに満ち、
感覚は自然と研ぎ澄まされた。
霊的な山々の描写。隙間には可愛い生き物たち。
火をくべて、張り詰めた静けさに暖かみを点すのは、
主である、燕喜堂は矢吹芳寛氏、その人であった。
さながら登山者を癒す山小屋の名物親父。否、山の守り人。
自分の描いた景色を、我々と同じように、外から眺めて、
悠然と遊び、伝え合う言霊の符合に歓喜する。
そこに『我』は無い。
『我』が無いから、その景色に私を投影できる。私が溶け込める。
霊山から私を眺めることが出来る。私が登ってきた霊山だと知る。
霊山は自分そのものだと感じる。
私の珈琲も、同じ道の上にあることを思った。
淹れたその人の味になる。
そんなコーヒーはとても神秘的だ。
とても奥深く、しみじみと美味しいものだ。
その人そのものの珈琲。
そんな美しい珈琲が私の理想で、
知らぬ間にそう歩いて来たのだった。
コーヒー豆に『我』はいらない。
コーヒー豆は筒である、媒体である、鏡であり、
その人を包みこむ世界観そのものである。
展示会の後に、氏はしまこやの豆で一杯振る舞ってくれた。
私はその液体の厚み、柔らかさ、濃密なコク、味わいの美しさを堪能した。
氏そのものの味わいであり、私はそのような豆を煎っている人生を、
とても神秘的に、静かにしあわせに、感じたのであった。
何語らずとも阿吽で通じる大事な仲間が、こんな私にも何人かいて、
彼らの淹れた、しまこやコーヒーを飲んでみたいと思った。
彼らの味にちゃんとなれたりするんだろうか、うちのお豆ちゃん達は。
どんな味わいなんだろうか、奴らのコーヒーは。
その時、共に過ごす時空間は。
淡路島に来て良かった。
私はこういう人間になりたかったから、島に来たんだと思った。
湧き上がる欲望、夢幻、外聞を捨てて、
過去も未来も、着飾った服を脱いで脱いで、
身体ひとつになっても、生きていけるのか?
裸一貫で生きていく資格があるのか?
自分自身で在って良いのか?
私は私そのもので、
生きていくことが、
許されるのか?
世界は優しかった。
脱いだら脱いだ分だけ、通じる仲間が集まって、
共にお店を守り、神秘的な空間に育ててくれています。
「こういう景色を見たかったんだなあ。」
と1日の終わりに感じてます。
・・・
と、久々にblogなど綴ってみました。
ありがたくも豆人生は続いております。
この先の景色がとても楽しみです。
2017年9月17日
しまこや珈琲店主